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彼女と私の奇妙な日常


 

 
 私の友達は、ちょっと変わっている。
 
 
―― AM 8:00 ――
 
「おはよう〜」
 
 私の名前は徳島(とくしま)夕実(ゆみ)。中学二年生。
 見た目はごく普通の、どこにでもいる女子中学生。
 成績は中の下くらい、背はどちらかといえば小さい方。
 左右ふたつに結んだ髪型は、自分でも幼いかな、と気にしている。でも顔立ちが幼いから、これがよくマッチしてて、複雑な気分だけど定番になってしまっている。
 
「おはよう、夕実」
 
 朝の通学路。校門に続く一本道で。
 そう言って振り返ったのは、私の友達の姫川(ひめかわ)亜沙羅(あさら)。
 とっても艶やかで綺麗な黒髪を、腰の辺りまで伸ばした、神秘的な雰囲気が漂う女の子。
 
「ね、今日の数学の宿題できた? あたし、全然分かんなくて、最後には諦めちゃった」
 言いながら私は、足を止めて待っててくれた彼女の横に並んだ。
「確かに少し難しかったわね。一応できたけど」
 答える彼女の表情は、無愛想ともいえる無表情で、つっけんどんな態度にも見える。物言いも大人びてるし、とっつきにくい感じがする、というのが周囲の彼女に対する主な評価。
 また、彼女のある特異な部分により、なんだか怖い、という理由で遠巻きにする人も多い。
 だから彼女に話しかける子はあまりいない。
 彼女の無表情なんて慣れてしまっている――というより、その無表情と、他人を寄せ付けない雰囲気が気に入ってる私以外には。
 私は少し変わってるこの友達がとても好きなのだ。
 彼女と過ごす、少し変わった日常も。
 
 前に向き直り、彼女が歩きだす。
 私も続いて歩きだす。
 朝日が眩しく照らす通学路は、挨拶を交わす生徒で賑わっている。
 私と彼女は、その中を、いつものように、二人並んで学校へと向かう。
 これが、私と彼女の日常の始まり。
 いつもの、奇妙な日常の。
 
 
 
―― AM 8:05 ――
 
 道中、校門が見えてくる辺りの道端に立つ、お決まりの電信柱。そこに差し掛かると、彼女はそれとなく寄ってきて私の肩をついと押す。
 もう少し、離れて歩こうと言ってるのだ。いつものことだから言葉にしなくても分かる。黙って彼女の進路に合わせた。
「今日もいるの?」
 私が聞くと、
「ええ」
 短く答える彼女。
 私にはなんとなく、嫌な感じがする電信柱としか見えないのだけど、彼女には何かが視えている。
 これが、彼女が遠巻きにされる最大の要因で、周囲が彼女を「なんだか怖い」と言わせしめる特異な部分である。でもとっつきにくいと感じる要因は、やっぱり彼女の無愛想にあると思うのだけど。
「ふ〜ん」
 私はふと足を止め、よく見たら私にも視えるのかな、と件の電信柱を振り返ってみた。
 目を凝らしてみたけど、やっぱり何も視えない。影が薄暗く感じはするのだけど。
 電信柱の影なんだか、それとは別の何かなんだか分からない。私の霊感は中途半端だ。
 前に向き直ると、彼女の背中が遠くなっていた。私一人、足を止めているうちに距離が開いてしまったのだ。私は慌てて彼女を追いかけ、追いつこうとして咄嗟に手を伸ばした。
 でもその手に触れる寸前、気付いた彼女が顔を強張らせた。ぱっと手を振り上げる。
 私の手は目標を失い、空振りした私はつんのめりかけて、バランスを取ろうと大股な一歩を踏み出した。
「っとと」
 彼女の周りの空気が一瞬固まる。
「っと、そうだった」
 私が悪い。彼女との約束を忘れて手を握ろうとしたから。
 前のめりの体勢から見上げると、彼女は微妙に眉をひそめて、
「……視えちゃうから」
 と消えそうな声で言った。
 うん、分かってる。そう言ってたもんね。
 この怒ってるように見える顔が、彼女の哀しんでる顔だってのも、私は知っている。
「うん、ごめんね。後で数学の宿題見せて」
「丸写し?」
「分かんないところ、教えてくれる?」
「いいわよ」
 すぐに表情を無表情に戻した彼女と、また二人並んで歩き出す。
 弾んでるのか弾んでないのかよく分からない会話をしながら、私と彼女は、いつものように、学校へと向かって行くのだった。
 
 
 
―― 約一年前 PM 4:10 ――
 
 彼女と初めて会ったのは、とある歩道橋の真ん中だった。
 
 古い歩道橋で、塗装があちこち剥げてて、剥き出しになった金属部分に赤茶色の鉄サビが浮かんでいた。
 下は結構なスピードで車が走ってて、なるほど落ちたら死ねるな、なんて思いながら辺りを見回していたら。
  
「あなた、視えるの?」
 
 突然後ろから声をかけられ、私はびっくりして振り返った。
 そこに彼女が立っていた。
 その頃すでに彼女は有名で、私も色々噂を聞いていた。でも遠くから、「あの人がそうか」と横顔を見た事があるだけだったので、はっきりと顔を合わせた事はなかったのだ。
 なので突然話しかけられた事に驚いて、ぽかんと口を開け、しばらく言葉が出て来なかった。
「……喋れないの?」
 固まってる私を見て、彼女は言った。
 嫌味って感じには聞こえなかった。疑問をそのまま口にしただけ、って印象。
 不思議と、私には噂ほど無愛想には感じなかった。
「う、ううん。喋れ……ます」
 でも初対面の相手に、タメ口をきくのはちょっと躊躇ってしまった。この時、彼女と私は中学一年生、別のクラスだったのだ。
「そう、よかった。それで、視えるの?」
「いえ、視えないです。ただ嫌な感じがするから、いるんだろうな、と思って」
 彼女はふむ、って感じに僅かに首をかしげた。それから言った。
「それなら大丈夫ね。でもあまり長居すると、憑かれるかもしれないから、ほどほどにしときなさい」
 私は噂どおりの人なんだな、と思った。「視える人」って噂どおりの。
 
「姫川さんは、はっきり視えるの?」
「割れた頭までくっきりとね」
 なるほど、かなり霊感が強いらしい。頭、割れてるんだ。痛そうだな、なんて思った。
「私のこと知ってるのね」
「有名だもん。あ、有名ですから」
「丁寧語で喋らなくていいわよ。同学年でしょ」
「そっか、そうだよね。うん、眼がいいんだね」
「視なくていいものも視えるほどにね」
 
 思ったより怖い人じゃなくて、私的には面白そうな子だな、と映った。結構話しやすいし、美人で無表情なのが日本人形みたいで綺麗だった。淡々とした口調も味があっていい。
 だから、友達になろうと思った。
  
「ね、マックでお茶してかない?」
「マックって、何?」
「んとね、赤い髪のピエロ」
「ピエロでお茶?」
「うん、ピエロでお茶。教えてあげる。こっちだよ」
 
 そう言って私は、無表情な彼女に背を向け、歩道橋の端を指差しながら案内しようと歩き出した。
 彼女は特に異存なさげで、黙々とついて来た。
 古びた歩道橋を降りて、少し先の交差点を渡る。Mの字の看板が見えて来る道を進み、私がその看板を指差す頃には、いつのまにか並んで歩いていた。
 
 そうして私と彼女は、友達になった。
 
 
 
―― AM 8:20 ――
 
「今日の数学って、五限目だよね」
「五限目ね」
「じゃあ宿題はお昼にお願い」
「分かった」
 私と彼女は、お喋りしながら昇降口で靴を脱いだ。固い革靴を下駄箱にしまい、柔らかい上靴に履き替える。
 二階にある二年の教室に、自然と足を運んだ。
 私が彼女の方を見ながら階段を昇ってると、ふいに彼女が眉根を寄せて言った。
「危ない」
「ほえ?」
 ちょっと阿呆っぽい声をあげて、踏み出した私の足が、階段の縁で滑った。
 階段の縁? ううん、違う。上の段にはまだ足をつけてなかった。
 何で滑ったんだろう?
 とか考えてる間によろけた私の手を、彼女が引っ張ってくれた。
 でも彼女も体勢を崩しちゃって、ああこれは二人で落ちるな、なんて頭の片隅で思ってたら。
 
「はくたく!」
 
 彼女の鋭い声が聞こえると同時に、ふわっと体が浮いた。
 背中を誰かに持ち上げられたような感触があった。
 気付いたら、階段の下にゆくっり尻餅をついていた。
「ありゃりゃ」
 私はびっくりして、目をぱちくりさせた。
 彼女と一緒にいると、よくこういう不思議な事が起こる。
「大丈夫?」
 彼女も一緒に着地したのか、私の隣にしゃがみこんだ姿勢で、片膝をつけて訊いてきた。
 私の背後を、動物のような何かが過ぎ去る気配がした。
「うん、大丈夫。手でも出てきた?」
「頭が出てきた」
「そっか、踏んづけちゃったんだ。痛そうだった?」
「むしろ喜んでた」
「じゃあ気にしなくていいね」
「悪戯なんだから謝るのはあっち」
 そんな会話をしつつ、私と彼女は身を起こした。
 でも私は足首にずきんと痛みを覚えて、思わず手摺につかまった。
「捻ったの?」
 彼女が心配そうに訊いてきた。
「そうみたい。保健室に行ってくる」
「一緒に行こうか?」
「一人で行けるよ」
 笑顔を作って彼女に手を振り、私は保健室に向かった。
 幸いにもここは一階で、まっすぐ廊下を歩いて行けば辿り着くので、たいした労力はいらない。
「はくたく」
 背後でまた彼女が謎の名を呼んだ。
 すると私の後ろを、何かがついてくる気配がした。
 あんまり視えない私だけど、彼女を取り巻く気配は彼女と同じ安心感があって、なんとなく感じることができるようになってきていた。
 視えないけど、なんとなく分かる。多分、見た目は犬っぽいんじゃないかな。
「ありがとワンちゃん」
 何もない空間に話しかけてみると、尻尾を振ってる犬の姿が一瞬視えた気がした。
 
 
 
―― AM 8:25 ――
 
「すみません、怪我したので診てください」
 
 保健室の中に入って言うと、部屋の奥に座っていた先生が、イスを回してこっちを向いた。
「はいはい、あら徳島さん」
 メガネをかけた、柔らかな物腰の女の先生が、立ち上がって近付いてくる。保健医の長谷川先生だ。
「今日はどうしたの?」
 ゆっくりと首をかしげて、優しい口調で訊いて来る。すごい美人ってわけじゃないけど、男子生徒にも人気があるらしい。ナイチンゲールってこんな感じなんだろうな、と思わせる癒しの雰囲気があった。
「足を挫いちゃったみたいです」
「あらあら、それは大変ね。こっちのイスに座って」
 そう言って先生はベッドの脇にある丸いイスを示し、私は頷いてそこに座った。
「どれどれ……うん、大丈夫。たいした事ないわ。一週間くらいで治るわよ」
 先生が診てくれてる間、ワンちゃんはどこにいるのかな、と首を回して部屋を見渡した。
 難しい名前の薬瓶が並ぶ棚、横になるためだけの簡素なベッド、それを仕切るカーテンの影、そのどこにもあの尻尾は視えない。
 ダメだな、よく分からない。
 近くにいないと気配もしない。
「さ、これでいいわ」
 いつのまにか処置が終わっていた。
 ひんやりした感触が足首を包んでる。
 湿布って、薬臭くて好きじゃないんだけど。仕方ないか。
 
「どうもありがとうございました」
「いえいえ、お大事に」
 私は長谷川先生にお礼を言うと、保健室を出て教室に向かった。
 
 
 
―― AM 9:50 ――
 
 ニ限目の体育は、体育祭に向けてのダンスの練習だった。
 今年は青いボンボンを持って、全員で整列したり、輪になったりして踊る。寄せては返す波のイメージで踊るらしい。男子生徒が、「うぇ〜ぶ!」とかふざけながら大袈裟な波を作っていた。
 
 私の横に彼女の姿はない。
 出席番号順に整列してるからだ。
 何気なく長い黒髪を探すと、やや離れた位置に、ボンボンを両手にしかめっ面して踊る彼女の姿があった。
 
「姫川さん、すごく嫌そうに踊ってるよね」
 手を上に挙げてボンボンを揺する振り付けの途中で、隣の女の子に話しかけられた。
「うん、姫ちゃん、ダンス嫌いみたい」
 私は彼女を姫ちゃんと呼ぶ。
 あさちゃん、と呼んだら「それはやめて」と言われたから、苗字の方をあだ名にする事にしたのだ。
 だからといって、姫ちゃんというあだ名を彼女が喜んだわけではないけれど。
 
「去年のフォークダンスは参加すらしなかったもんね」
 そう噂したところで先生に睨まれ、隣の女子は口をつぐんだ。私もダンスに集中する。
 体育の先生は念押しするようにもう一度じろっと睨んでから、他の生徒も見まわり始めた。
 だけど、踊る生徒達を指導してまわるその先生は、彼女の位置に差し掛かると、少し怯えた顔で通り過ぎてしまった。
 そういえばあの先生は、去年も同じくダンスを教えてたっけ。
  
  
 去年、彼女は体育祭のダンスに参加しなかった。
 噂で聞いた話なのだけど、彼女は断固拒否したらしい。
 もちろん先生は許さなかった。授業はじめに踊ろうとしない彼女を叱った。理由を執拗に問いただしたところ、彼女は「手をつなぐのが嫌だから」と答えた。
 そんな理由がまかり通るはずはなく、先生は猛烈に怒ったらしい。それに対して彼女はため息をひとつつき、
「では、あちらで手をつなげない理由を教えます」
 と先生を手招きして校舎の中に連れて行ったらしい。 
 数分後、先生の悲鳴が校舎中に響き渡り、以後、彼女は全面的に、フォークダンスを免除してもらえることになったという話だ。
 
 今年のダンスは、手をつなぐ必要のないもので。
 それは多分、彼女のおかげ。
 私も手をつなぐのは好きじゃないのでありがたい。
 私達の周りを何周もまわって指導するその先生は、ボンボンの振り方にこと細かい指示を出す。
 でも、つまらなさげに躍る彼女を注意することは、結局ただの一度もなかった。
 
 
 
―― AM 11:28 ――
 
 四限目は実験室で科学の授業だ。
 私と彼女は実験室へと移動した。
 なにごとにつけても行動の遅い私と、焦る事なく私に合わせてくれる彼女。移動はたいてい最後になる。
 実験室の扉をがらりと開けると、真っ黒な空間が現れた。
 彼女は瞬時に扉を閉め、返す手で再び扉を開けた。
 現れたのは、やっぱり真っ黒な暗い闇だった。
 
「……閉じないと駄目ね」
 諦めたように言って、手をひらひらする彼女。
「なにやってるの?」
 私が訊くと、
「引きずり込もうとしてるから追い払ってるだけ」
 答える彼女。
 そう言われて見れば、確かに何かを手で払う仕草だ。
 この闇は私でもはっきり視えるくらい強い異質感を放っている。でも中から伸びる何かは私には視えない。
 と、彼女が私の方を向いた隙に、男子生徒が彼女の横を通り過ぎた。
「おっさきー!」
「「あ」」
 私と彼女の小さな呟きが重なった。
 男子生徒は闇の中に消えて行った。
 
「…………」
 
 無表情の彼女と、きょとんとする私は、ほんの少しだけ沈黙した。
「えーと……。はくたく、お願い」
 獣の尻尾が闇に吸い込まれてくように見えた。
 それから彼女は扉を閉め、なにやら指で複雑な形を作った。彼女の口から、お寺で聞くような真言めいた言葉が洩れる。
 彼女が小さく肩で息をついて、私は作業が終わった事を知った。
 次に扉を開いたらそこには、見慣れた授業風景が広がっていた。
 
「……ちょっと遅刻かな」
「遅刻したようね」
 
 私と彼女は軽く注意されたが、それだけですんだ。
 科学の授業は滞りなく進んだ。席がひとつ空席だったけど。
 そこに座るはずだった男子生徒は、授業の最後まで現れなかった。
 
 
 
―― PM 1:40 ――
 
 五限目の数学は、彼女のおかげで無事切り抜けることができた。
 幸か不幸か、解らなくて彼女に訊いた問題を、黒板に書いて解答させられたのだ。
 お昼に教えてもらってたので、なんとか解答する事ができた。
 私が解答を書き終えた後で、先生がふと怪訝な顔をして、
「あ、これ、高校の問題だったか。よくできたな徳島」
 と洩らした途端、先生のカツラが宙を飛んだ。
 教室に爆笑の渦が巻き起こった。
「だ、誰だこらぁーっ!」
 
 教壇から振り返り、教室の右端の席をちらりと見る。
 すると眉をしかめて(多分ムッとした顔)、指先を先生に向ける彼女がいた。
 
 
 
―― PM 2:55 ――
 
 六限目の国語の授業中、教室の扉がガラリと開き、四限目以降、行方不明となっていた男子生徒が、ぽかんとした顔で現れた。
 
 あ、連れて帰れたんだ。すごいな、はくたく。
 
 男子生徒は先生に大層叱られた。
 
 
 
―― PM 3:40 ――
 
 放課後になったので帰ろうとしたら、彼女が言った。
 
「今日は掃除当番」
 
「そっか、じゃあまた明日」
 私は手を振って彼女と別れた。
 帰り道を歩いてると、足が痛んだ。
 捻挫してたのにダンスも踊ったから。負担をかけすぎたんだと、今更ながら気付いた。
 痛いなー、と思いながら足を引き摺っていると。校門を出てしばらくのところで、後ろからポン、と肩を叩かれた。
 
「どうしたの、徳島さん」
 
 聞き覚えのある声に振り返ってみると、保健医の長谷川先生だった。
 
「あら、足の怪我、大分痛そうね」
 先生は少し眉根を寄せて、私の足元に目を落とした。
「怪我してること忘れて、体育の授業に出ちゃったんです」
「あらあら、駄目じゃない、安静にしなきゃ」
 まったくその通りだったので、私は「すみません」と謝った。
「別に怒ってる訳じゃないのよ。すぐ冷やさないとね。私のマンション、すぐそこだから、ちょっと寄って行きなさい」
 先生に促されて少し迷った。
 でも家までまだ距離があるので、結局、先生の家にあがらせてもらう事にした。
 
 
 
―― PM 4:30 ――
 
 先生が丁寧に冷やしてくれたおかげで、足の痛みは徐々におさまってきた。
 新しい包帯が足首に巻かれる。
 痛みがひいてほっとした。
 素直にありがたい。うん。それは嬉しいんだけど――
 
 私は目だけでキョロキョロと辺りを観察した。
 どうにもこの部屋は落ち着かない。
 案内されて、この部屋に入った時から、ぞくりとした悪寒が走っていた。
 せっかく治療してくれた先生には悪いけど、先生の家の住人には、私は馴染めなさそうだ。
 処置が終わって、先生は飲み物を取ってくると言って、台所に消えて行った。一人居間に残された私は、ソファーに座って、この気配の主はどこにいるんだろうかと、見渡せる範囲にぐるりと首を回した。
 私が座っている可愛い花柄のソファと大きめなテレビ。ありきたりの家具。一般的な家庭の雰囲気がする。妙な影はない。
 壁に掛けられた額縁入りの写真に、先生と見知らぬ男性が写っていた。
 そういえば、長谷川先生は結婚してたっけ。
 先生の左手の薬指に、いつも指輪が光っていた気がする。
 写真の男性は旦那さんだな、と思ってるところに先生が戻ってきた。
  
「徳島さん、ちょうど昨日作ったシチューが残ってるの。よかったら食べていかない?」
 言いながら先生は、手に持ったシチューのお皿をテーブルに置いた。
 よかったら、って、すでにお皿を持ってきてる時点で、食べないわけにはいかない雰囲気なんですが。
 なんとなく納得いかない気分ながらも、素直にいただく事にした。
 しかし、そんな事より、長谷川先生の顔が気になる。
 いや、顔というより、その横にある影。
 さっきは視えなかったのに。いつのまに。
 影は先生の背後に、貼り付いたように漂っている。
 学校で視えたことはないから、この部屋の自縛霊なんだと思ってたけど。あれってとり憑かてるんだろうか。この部屋にいる間だけ、とか。
「いただきます」
 早々に立ち去ったほうがよさそうだと思えた。
 シチュー皿に目を落とし、スプーンを手に取る。
 その時初めて気付いたけど、なんだか妙に生臭いシチューだ。
 茶色だからビーフシチューだろう。野菜とお肉らしき塊。スプーンをかき入れると、丸い物体が浮き上がった。
 小さい玉ねぎのようで違う。ゼラチン質っぽい、弾力のある白い丸い物体。表面の一部に、茶色だか、灰色だかの丸い模様。およそ見た事のない食べ物。
 いや、これに似たものを見た事はある。あれは確か――――
 
 無言で先生を見上げると、影が先生の顔に移ったかのように、ニコニコした顔が暗く見えた。
「どうしたの? 徳島さん。どうぞ召し上がって?」
 学校で見る先生のにこやかな顔と、今のニコニコの顔は、同じようで違う。雰囲気がまるで違う。ニコニコしたまま、先生が近付いてくる。
 
 なんとなく、まずいかな、と思った。
 
 先生の手がスローモーションのように伸びてくる。
 逃げた方がいいかもしれない。足は腫れちゃうだろうけど。
 だけど、先生の手が私に触れそうになった時、突然、扉を開ける大きな音が鳴り響いた。
 
「失礼します!」
 
 その声の主が誰だかは、すぐに分かった。
 
 彼女が部屋に入って来た。
 顔はいつもの無表情。態度もいつものつっけんどん。だけど彼女の纏う空気は、只ならぬ怒気をはらんでいた。
 
「ひ、姫川さん……?」
 先生はあからさまに狼狽していた。驚くと同時に浮かんだ表情は、怯えが混じってるように見える。
 彼女がキッと先生を睨みつけた。
 先生は小さく悲鳴をあげ、一歩後ろに下がった。いや、悲鳴をあげたのは先生じゃない。先生は肩の影につられただけだ。
「夕実、帰りましょ」
 そう言って彼女は私の手を握った。
 私は彼女に、手を握られた。
 彼女のほうからだから、これは約束を破ったことにはならないだろう。
 彼女は私の手を引き、私は持ち上げられるように立ち上がった。
 足元に感じる何かの気配。犬のような狐のような白い獣が、尻尾をふりふりしてついてくる。
 
 ああ、やっぱり犬っぽい。
 頭を撫でれたらいいのにな。
 
 彼女は私の手を握ってることに気付き、手を離そうとした。でも私はギュッと握って離さなかった。
 彼女が困ったような顔を私に向ける。
 大丈夫。気にしないよ。
 あちこちに黒い人影が視えるのなんて。空気が淀んで視えるのなんて。
 だってこれが彼女の世界。
 私は今、彼女と一緒の世界を視てるんだ。
 にこりと彼女に笑い返す。
 彼女は一瞬驚いた顔をして、それから照れたように目を伏せた。
 私の友達の世界は、黒い影に覆われている。
 けど彼女自身は白い光に包まれている。
 今まで視えなかったけど、なんとなく想像してた通り、綺麗だ。
 私は満足して頷いた。
 そして背後を振り返る。先生にさようならと別れの手を振る。
 でも長谷川先生は手を振り返してはくれず、悔しげに唇を噛んで私達を見送っていた。その肩に、先生の顔の横に、憎々しげな表情を浮かべる、血まみれの女の人がいた。
 その顔に浮かんでるのは、愛する男に裏切られた怨念。口から吐き出されるのは、呪いの言葉。今なら視ることができる。感じることができる。
 不意に女の人の顔が先生の顔に重なり、狂ったように笑いだした。
 血を流す黒い穴を、普通なら目がある部分に開いてる黒い穴を、にやりと細め、口の端を歪める。
 
 それは、狂気にとりつかれた、凄絶な笑みだった。 
 
 
 
―― 翌朝 AM 7:30 ――
 
 そしてまた始まるいつもの朝。
 制服に着替えて準備万端の私は、トースターにパンを差し込み、カップスープを手早く作って食卓に皿を並べた。
 席についてテレビを見ると、朝のニュースが流れていた。
 テレビに映ったマンションは、昨日行ったばかりなのでよく覚えていた。
 トーストに噛り付いて見入る。
 行方不明となっていた男性は、自宅のマンションで、死体となって発見されたらしい。
 容疑者はその妻、長谷川 佐和子。
 死体は首なしで発見され、その頭部はいまだ見つからない。
 長谷川 佐和子は錯乱状態で、事情聴取もままならないが、痴情のもつれと判断されたとか。
 私はなんとなく納得して、トーストを口にほおばった。
 昨日のシチューに入ってた丸い物体。生物室に保管されてる、ホルマリン漬けの瓶の中にある物と、似ていた事を思い出した。
 
 それから私は朝食を食べ終え、さっさと学校に向かう。
 今日は彼女とマックでお茶して帰ろうかな。
 そんな事を考え、放課後が楽しみになる。
 
 そして私はいつもの通学路を、鞄を揺らしながら早足で歩く。自然と探してた後姿、その長い黒髪を見つけて名前を呼ぶ。
 彼女が足を止めて振り返る。私は彼女の元に駆け寄る。お決まりの電信柱を、少し避けて校門に向かう。
 
 そんないつもと変わらない日常が。私の好きな、彼女との奇妙な日常が。 
 きらめく朝日と共に、今日も始まる。 
 
 きっと。明日も。明後日も。
 
 こんな日常が、続くのだろう。
 
 ううん。
 
 
 続くといいな――――
 
 
 
		
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