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殺虫禁止令


 

 うだるような蒸し暑さ全開の夏真っ盛りのある日。
 俺は団扇を右手に、ビールの缶を左手に、どっかとソファに腰を下ろした。
 仕事を終えて、風呂でさっぱりした後のビールは毎日の俺の楽しみである。しかも今日は泡までうまいモルツを飲める、月に一度のプチ贅沢デイなのだ。安物のビールとは一味違う。
 ひとまず団扇で風を送り、火照った体から熱を逃がした。
 夏の暑さは鬱陶しい。いくらさっぱりさせても後から後から汗が湧いて切りがない。
 鬱陶しいのは他にもある。同じく後から後から湧いてくるもの。頭に描くのさえ腹立たしい。夏はひたすら我慢の季節だ。
 そんななかで見出せる楽しみといったら、やはりコレしかないだろう。
 夏といえばビール!
 特に風呂上りのビール!
 おっと飲み頃を逃がしてしまう。団扇を扇ぐ手を止める。
 ビールに視線を注ぎ、プルトップに指をかける。
 プシュッと軽快な音がした。きめ細かな泡が飛び出すと共に冷気が薄っすらと上がる。思わず拝みたくなるような、キンキンに冷えたビール、ごっつぁんです。
 漂う香りの清涼感に夏の暑さが吹き飛んだ。
 にんまりと笑う俺は最早、目の前のご馳走に釘付けだった。
 が、そこで俺のご機嫌タイムを損ねる無粋な音が耳に入る。
 
 ぷ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん
 
 一気に不快指数が跳ね上がった。背中の毛がざわりと立つ。
 弦を震わすようなこの音は、なにより俺が嫌ってる音なのだ。どんなに微かな音でも俺は聞き漏らさない自信がある。そしてこれが聞こえるということは奴が近くに潜んでいることを示しているのである。
 俺はビールをテーブルに置いて立ち上がった。音源を探して周囲をくまなくチェックする。
 すると右手すぐ近くの白い壁に、小さな黒い点があるのを見つけた。
 一見すると汚れかなにかに見えるその無機質な黒い点は、斜めから見ると僅かに中央が盛り上がっており、四方に突き出る細い線がただの汚れとは異なることを物語っている。見逃すはずがない。この周囲の景色から浮き上がって見えるような異質感。見た瞬間に肌が粟立ち生理的不快感がこみ上げてくる。
 
 いたぞ。奴だ。
 
 俺の目が光った。体の奥底より湧き上がる闘志が俺を突き動かす。本能が訴えた。
 
 殺せっ! 奴を殺せっ!
 
 右手の団扇をテニスのラケットのように構える。勢いに乗って素振りもニ三度行いたかったが、奴を警戒させるかもしれないのでそれは控える。奴を仕留めるにはスピードが命なのだ。
 俺はじりじりと奴に近付いていった。ぬき足さし足三歩ほどで奴との距離は手が届くほどに狭まる。近付くほどに、不明確だった黒い点が間違いなく奴であることを示す生命感を漂わせる。
 殺意はさらに高まった。
 団扇を僅かに振り上げる。
 額に汗がじわりと浮かんだ。
 
 今だ!
 
 狙いを定めて、団扇を勢いよく壁に叩きつける。
 
 ばちぃ――――ん!
 
 団扇が折れるかのような威勢のいい音がした。手応えあり。
 壁から団扇を離すと、そこには人間様の勝利を示す赤黒い染みができていた。
 こいつ、すでに人を襲った後だったか。
 犠牲者にアーメンだ。
 俺はティッシュで壁を拭い、ごみ箱にポイっと捨てた。
 満足してソファに戻り、ご機嫌タイムを再開する。
「ちょっとパパ!」
 と、今度はかん高い妻の声が俺の憩いの時間を妨げた。
「なんだよ久江」
 俺は煩わしげに答えて振り返った。こういうトーンで呼ばれる時は、文句が飛び出してくると決まっているのだ。俺の統計では九十パーセントの確率でそうなると算出されている。
「子供の前で、そういう殺伐としたことはやめてちょうだい!」
 リビングとダイニングの境目に立つ久江が目を吊り上げて主張した。境目といっても明確な仕切りがあるわけではなく、気持ちの上での区画分けだ。
 久江の横では、ぽけーっとした顔で床に座り、車のオモチャで遊ぶ息子の幸介が俺を見つめている。いつものように鼻が垂れてる。なんでこいつは四六時中鼻を垂らしてるのだろう。もう五歳だというのにその顔は、知性のカケラもなさそうで不安にさせられる。一時期知恵遅れなんじゃなかろうかと本気で疑ったものである。
 そんな我が息子を割れ物のように扱う久江が、腰に手を当ていつものように、「私は子供のことを第一に考えてるの」オーラを放ってまくしたて始めた。
「コウちゃんには生き物の命を大切にする子に育って欲しいの。どんな小さな虫でも大切な命って思う子に育って欲しいの。なのに親がそんな態度じゃ、生き物を殺して平然とする子になっちゃうでしょ! 子は親に倣って育つのよ」
「なんだよ、蚊を殺したくらいで大袈裟だな」
「あなたが大袈裟に殺すからよ! もっと生き物の命を大切にしてちょうだい。なによ蚊の一匹二匹、べつに刺されたって死にゃしないでしょ?」
「おいおい蚊は害虫だぞ。見つけたら殺すのが当然だ」
「その考え方が傲慢なの! 人間のエゴそのものよ。殺して当然なんて言ってたら、最初は小さな虫でもやがて全ての暴力に対して当然だとか言うようになっちゃうのよ。コウちゃんが暴力的な子になっちゃったらどうするの」
 蚊を殺すことで人間のエゴイズムを説かれると思わなかった。どうしてそこまで飛躍するんだ?
 言ってることも多少は頷けるが、だからといってこれは譲れない。蚊は太古より人間の不倶戴天の敵なのだ。見つけたら殺す。殺らねば殺られる。人間と蚊はそういう間柄なのだ。
「害虫退治と暴力は別だろ。害虫退治は必然なんだよ。あいつらは人間を蝕んで生きてるんだぞ」
「若者がホームレスを襲う事件が以前によくあったわよね。あれ、『社会のダニを退治してやったんだ俺達は』みたいなことを言ってたそうよ。害虫退治は必然なんて傲慢な考え方から発展した事件なんじゃないの?」
「ありゃ単にこじつけだ」
「だからそういうこじつけにつながるから、傲慢な考えは捨てろって言ってるの。害虫といえども大切な命、そう教えながら育ててたらあんなことをする子供にはならなかったはずよ」
 大切な命かもしれないが害虫は害虫だ。退治しないとこっちが一方的に蝕まれるじゃないか。
 しかし妙に説得力があるので思わず頷いてしまいそうになる。久江は口が達者なのだ。
「わかったわかった、幸介の前で殺さなきゃいいんだろ?」
 俺は面倒くさくなって適当にあしらった。早くこの会話を終わらせないと、せっかくのビールがぬるくなってしまう。こうしている間にも、手にした缶の水滴が、どんどん大粒になって蒸発していってるのだ。
「そういう問題じゃないわ。コウちゃんの前だけじゃダメ。親が命を大切にする姿勢を見せないと説得力に欠けるでしょ。抜本的解決を要求するわ」
「なんだよ難しい言葉を使うな。あんまりインテリぶるなよ。化けの皮がすぐ剥がれるぞ」
 俺はなんだか嫌な予感がして、茶化し気味に言ってみた。この後に続く言葉を本能が「言わせたくない」と告げている。
 ビールの缶から水滴が落ちた。
「なんとでも言って。とにかく模範を示すために、あなたには協力してもらうわよ。そうね――――こうしましょ。コウちゃんが大きくなるまで、今後我が家では一切、虫を殺すのは禁止。害虫退治なんてもってのほか。蚊といえど同じよ」
 なんと、まさに嫌な予感は的中した。久江は神妙な顔で、とんでもないことを言い出したのだ。
「なんだって!? そんなのまかり通るわけないだろ!」
 俺は悲鳴をあげた。弾みでビールを落としそうになる。おっとっと、と意識をビールに戻す。
「禁止ったら禁止! これは命令よ! そうね――『殺虫禁止令』ってのはどう?」
 どうもこうもあるか。俺になんて答えを求めてるんだ?
「勝手に決めないでくれよ」
 どうにか反論らしきものを言ってみる。ビールに意識を集中させたために、気勢が削がれてしまってた。
 やはり弱すぎたのか、久江は耳を貸す様子もなく続ける。
「早速明日から実行しましょ。『殺虫禁止令』、うんなかなかいい響きだわ。破ったらペナルティが必要ね。そうね――その月はお小遣い半分にする、てことにしましょうか」
 得意満面の顔で同意を求めてくる。ちょっと待て。そのジョーカーは反則だろう。だから俺は、妻が財布を握ることに反対なのだ。すでにがっちり握られてるのは、俺の人生最大の不覚だった。
「なぁ久江、そんなおおごとにしなくてもいいじゃないか。幸介だって蚊に刺されたら可哀想だろう? 蚊は病原菌だって運ぶんだぞ」
 俺は作戦を変えて説得を試みてみた。子供のためというなら、害虫を駆除するのだって子供のためではないだろうか。久江はそういう論法に弱いはずだ。
「コウちゃんには虫除けスプレーつけてあげるから」
 あっさり切り返されてしまった。
「じゃあせめて蚊取り線香炊かせてくれよ。蚊が現れなきゃ問題ないだろ?」
「変な薬剤や煙を吸って、コウちゃんの体に影響があるといけないからダメ」
 虫除けスプレーは影響ないのか?
 何か他に久江を説得できるネタはないものか。俺は頭を捻った。
 そしてあるものが頭に閃いた。そうだ。久江はアレが大嫌いなはずだ。
「アレが出てきたらどうするんだよ。『ゴ』のつく黒い害虫が。アレも見逃してやるのか?」
 その言葉に、久江は嫌そうに顔をしかめた。
「あんなおぞましいもの、近寄りたくもないもの。どっちにしろ見て見ぬふりするわよ」
 そうかぁ? いつも執拗に追い掛け回してるじゃないか。
「アレはすごい繁殖力なんだぞ。退治しないと一匹が百匹になるんだぞ」
 俺は脅かすように言ってみた。
「もうソレの話はしないで! とにかく殺虫禁止は決定なの!」
 しまった。逆効果だった。
「そんなこと言わずにさ、もっとよく考えてみてくれよ」
「前々から考えてたことなのよこれは。十分だわ」
「俺に蚊を我慢しろっていうのか!?」
「少しは我慢を覚えるいい機会でしょ」
 さらに俺が反論しようとすると、久江は厳しい目で詰め寄ってきた。
「お小遣い半額」
 どうあっても俺に強要したいらしい。俺は久江の迫力に呑まれてしまった。返す言葉が喉につかえてなす術もなく硬まる。
 ビールの缶の水滴はすっかり蒸発してしまっている。
 最早ご機嫌タイムは彼方に飛んでしまった。
 なんてこったい。
 一匹の蚊がやってきて、うなだれる俺を嘲笑うかのように、目の前をぷ〜んと通り過ぎた。
 
 
 それでも俺は、まだ高を括っていた。どうせその場の勢いで言った言葉だと。
 一日経てば忘れるだろうとさえ思っていた。
 だが翌日、会社から帰ってきた俺がリビングの壁に発見したものは。
『殺虫禁止』
 とでかでかとマジックで書かれた貼り紙だった。
 見つけてしばしの間、「なんだこれ?」と俺は能天気にも昨晩のことを忘れて目を瞬かせた。
 それから「ああ」と思い出して顔をしかめる。
 本気だったのか。
 久江は結構忘れっぽい。だから俺もついつい半分しか本気に受け止めない。
 俺の視線の先に気付いた久江が得意げな顔で言ってきた。
「けっこう達筆でしょ?」
「書道の先生になれるかもな」
 もちろん心にも思ってない。
 ため息混じりに寝室に向かい、スーツ姿からラフな服装に着替えて、食卓につく。すでに食事の用意は整っていた。今日は中華のようで、酢豚が黒々と光っている。黒酢とかいうやつを使ったのだろうか。
 列車のオモチャを握る幸介が、リビングの低いテーブルの周りをぐるぐる回って遊んでいた。
 我が家は三LDKなのだがLDKは全てひとつながりになっている。明確な仕切りがないのでリビングの端っこに食卓――つまりダイニングテーブルがあるようなレイアウトだ。ひとつの空間に色んなものがごちゃごちゃあるのは美しくないが構造上仕方ない。このLDKの広さが魅力で買ったのだ。周辺に緑が多いのもよかった。ここは駅から離れた住宅街に建つ分譲マンションの一室なのだ。
「パパ、ここどーこだ?」
 幸介が俺を振り向いて呼んだ。別に我が家の場所を尋ねてるわけではない。リビングのテーブルの一箇所を指で指し示してることで分かる。
「新宿かな」
 幸介にはテーブルの外周が山手線の線路に見えるのだ。指で指してる場所が何駅に当たるかを当てる遊びなのだこれは。乗り物好きの幸介らしい。
「ちがうよ、おおつかだよ」
 そんなマイナーな駅は知らん。
 だいたいどこを基点としてるのかも分からん。
 俺は相手にするのをやめて酢豚を口に運んだ。五歳児の思考に付き合うのは疲れる。
「ねぇパパ、コウちゃんったら今日はね」
 久江が横にやってきて今日の出来事を楽しそうに話しだした。話の内容は八割がた幸介の武勇伝だ。喧嘩に勝ったとかではなく、例の若手芸人がネタにしてるやつ。武勇伝、武勇伝。子供の方がネタに困らないのではないか。
「麦茶をくれよ」
 俺は水を差さないタイミングを見計らって久江にお茶を頼んだ。子供の話は面白くないわけではないが、さほど興味もない。正直聞き飽きてるかもしれない。
 久江がキッチンに消え、ほっとしつつ食事を続けた。
 適当に相槌を打つのも結構面倒くさいのだ。
 あらかた酢豚を食べ終わったころ。
 
 ぷ〜〜〜〜〜〜〜〜ん
 
 奴が現れた。
 途端に俺の目つきが変わった。
 首を振って周囲を見回す。ほどなく黒い浮遊物を発見。俺の右肩手前から、下に向かって移動している。馬鹿め、殺してくださいと言わんばかりだ。
 俺は躊躇なく手を伸ばした。両手で挟みこんでやる。
 だらしなく四肢を垂らして飛ぶそいつを視線で射殺すが如く睨みつけた。
 両手を奴の進行方向に合わせて平行移動させ、ふくらはぎ辺りで確実に殺せる範囲に捕らえる。俺の目が残酷な輝きを増した。
 だがその時。
「パパ! 殺虫禁止って言ったでしょ!」
 久江の鋭い叱咤が飛んできた。
 俺はびくっと震えて硬直した。壁の貼り紙を思い出す。
 殺虫禁止令。やっぱり本気だったのか。
 蚊はその隙を逃さず掻き消えるように飛び去って行った。
「いや足が疲れてたからさ。揉んでほぐそうかと思って」
 俺は苦しい言い訳をした。言い訳ついでにかがんだ姿勢のまま、ふくらはぎをマッサージする。なにげに気持ちいい。
 そんな言葉に騙されるわけがない久江はこちらを睨み続けている。怖い。宿題やると言っておいて遊んでたところを見つかった小学生の気分だ。
「虫は殺しちゃダメだからね。よぉ〜〜く覚えててよ」
 菜ばしを持ったままの手を腰にあて、威張ってるようなポーズで注意してくる久江。俺は思わず頷き返した。まったく情けないことだが言い返せなかった。
 久江は最後に鼻を鳴らして踵を返し、またキッチンに戻っていった。
 俺はほっとして身を起こし、残りの酢豚を食べ尽くすべく箸を取った。食欲など消え失せてしまっていたが。残すと久江に何を言われるか分からない。酢豚はもう冷え切っている。
 こちらをじっと見つめる幸介と目が合った。ばつが悪くて笑い返しておく。幸介の鼻の下は相変わらずぬめぬめ光って湿っぽい。
 逃した蚊が徘徊してる部屋で過ごさねばならないかと思うと、背筋が凍るほど怖気が立った。
 
 
 ぷ〜〜〜〜〜〜〜〜ん
 
 ばしっ!
 
 デスクの脚にとまった蚊を、俺は丸めた書類の束で目一杯叩き潰した。
 まったく不愉快このうえない。
 汚れてしまった書類をティッシュで拭いたが、黒い筋が残ってしまって、他の物を使えばよかったと少し後悔した。
「どうしたんですか多田さん、機嫌悪そうですね」
 部下の伊橋が気遣うように声をかけてきた。
「どうしたもこうしたもないよ」
 俺は不機嫌さを隠そうともせず吐き捨てた。この際、伊橋にはとことん愚痴を聞いてもらおう。
 書類の散らばったデスクから目を離し、伊橋の方に顔を向ける。隣の伊橋のデスクは俺のところとは違ってきれいに整理整頓されていた。
「うちの奥さんがさ、家で虫を殺すなっていきなり言い出したんだよ」
「虫を、ですか」
「そうそう、子供の教育に悪いんだとさ。俺も只の虫なら意味もなく殺さないよ? でも、蚊も殺すなって言うんだよ」
「はぁ。蚊を殺さずにすますのは難しいですね。多田さん、蚊が大嫌いですもんね」
「そうなんだよ。だって相手は害虫じゃないか。放っとくと害を為すんだよ? 殺さないわけにはいかないだろう?」
 言いながらまた腹が立ってきた。害虫を殺して何が悪い!
 だが俺は久江に強くは言えないのだ。結婚もこっちが頭を下げて申し込んだ立場だ。
 昔はあんなに厳しい女じゃなかったのに、と俺は数年前のまだ優しかったころの姿を思い浮かべてしんみりした。これが倦怠期というやつだろうか。
 やはり女は子供ができると変わる。それはよく耳にした噂どおりだった。幸介が生まれてからの久江は家を守ってるのは自分だとばかりに鼻息を荒くし、あれこれ指図するようになった。俺はまるで自分の母親に言われてるような気分で萎縮して、そのどれもにハイハイ頷いてしまう。母親というのは不思議な強制力があるものだ。
「お気の毒さまです」
 伊橋は同情交じりの苦笑を浮かべ、ぺこりと頭を下げた。その次の瞬間にはもう引き締めた顔に戻り、「ところで午後からの打ち合わせの資料なんですが……」と仕事の話に移る。有能な部下を誇らしく、また多少憎らしく思いながら、俺も頭のスイッチを切り替えた。
 また例の羽音が聞こえてきたので宙に歯を剥いて威嚇しておいた。
 
 
 それからの数日は忍耐の日々だった。
 殺されない蚊は当然血を吸ってくる。
 
 
 ぷ〜〜〜〜〜〜〜〜ん
 
 くそ……いる。近くに何匹かいるぞ。
 リビングのソファに座り、テレビを見ながらも俺の心はくつろがなかった。ボリュームを上げても敏感に蚊の羽音を聞き分けるこの性能の良い耳が恨めしい。
 俺の横では平和そうな顔した幸介が手にした飛行機のオモチャを「ぶぅ〜〜ん」と空に飛ばす真似をしながら行き来していた。ソファの上なのでぎしぎし音が鳴る。
「幸介、あんまり暴れるな」
 言っても大抵はきかないのだが、一応注意しておく。その場でくるくる旋回する我が息子は予想通り何の反応も示さない。
「とつげーき!」
 どころか攻撃してきやがった。額に飛行機ががつんと当たる。
 俺は呻いて額を擦った。突撃隊なんてどこで覚えたんだ。
「お前なぁ……もっと大人しく遊べんのか」
 痛みをこらえつつ、辛抱強く注意する。
「はなばなしいさいごでありました!」
「どこで覚えたそんな言葉!」
「まーくんがいってたよ」
 どういう友達だ。こいつの交友関係はどうなってるんだ。
「そういう殺伐とした遊びはやめておけ」
 俺が久江に怒られる、とは口に出さない。
「ぶぅ〜〜ん」
 この身勝手さは誰に似たんだ。人の話など聞きゃしない。
 諦めてテレビに視線を戻したとき、久江がつまみの皿を持ってやってきた。
「コウちゃん、ソファの上に立っちゃいけません! パパもちゃんと注意してよ」
 現れるなり小言が飛び出す仕様になってるのか我が妻は。
 注意してもきかない子に育ったのは半分以上そっちの責任じゃないのか。
 心の中に不平不満は山ほど溜まってるが、そのどれひとつ口をついて出てこなかった。
 俺はささやかな反抗心でテレビから視線を外さずビールを一口ぐびりとやった。
 腕に一匹の蚊がとまってるのに気が付いたのはその時だ。
 こいつ! 俺の血を!
 総毛だった。
 殺虫禁止令が施行されてから、何度か咬まれていたが、その現場を目撃したことはなかった。近くにいても目で追わないよう努めてたので、咬まれてるかもしれないとは思いつつ、見ることなくすんでいた。
 だが今、俺は気付いてしまった。
 目の前で堂々と血を吸われている。
 俺の目の前で。
 天敵である蚊が。
 堂々と俺の血を吸っている。
 反射的に手が上がりそうになった。
 横には幸介がいる。久江もこちらに顔を向けている。タイミングとしては最悪だった。
「ぶぅ〜ん」
 幸介はしつこくソファの上で暴れていた。久江はもう一度注意した。俺にも何か言ってるようだったが、意識は左腕に集中し、まったく頭に入ってこなかった。
 体じゅうじっとりと汗ばむ。
 全身の毛穴から、汗が噴き出してるかのようだ。
 世界が真っ白に染まっていく。
「パパ! 聞いてるの!?」
 久江のきんきん声に、はっと我に返った。
 景色は色を取り戻し、腕には変わらず蚊がとまっている。
 だが丁度その時満足したのか、蚊はふいっと飛び上がり、俺の目の前をこれみよがしに横切り飛び去っていった。「ゴチソウサマ」と言われた気がした。
 完全なる敗北。
 俺は負けた。虫けらに負けた。
「パパ、でんしゃごっこしようよぅ」
 いつの間にかソファから降りた幸介が、俺の右腕を引っ張って催促してきた。
 打ちのめされてた俺は機械人形のように頷いて幸介に従った。
 やりきれない気持ちに全身掻き毟りたくなったのは、それから一時間ほどしてからだった。
 
 
 そんな日々がさらに数日続いた。
 俺はストレスで胃に穴が開きそうだった。
 蚊の羽音が気になって、夜もぐっすり眠れなくなり、耳栓をつけて布団に入るようになった。
 間の悪いことに今年は例年になく雨の多い猛暑で、ボウフラが生き生きと育ったらしい。蚊が大量発生とかニュースで流れていた。思わずブラウン管にリモコンを投げつけそうになった。
 
 
「ふんっ!」
 静かな事務所に俺の鼻息荒い掛け声が響いた。
 それほど大きな声ではないはずだが、知らず力が篭ってしまう。キーボードの音と電話の応対の声が主たる音源のこの事務所では少々目立つかもしれない。
 何事かと驚く女子社員が遠巻きに俺を観察するのが視界の端に映る。「多田さんどうしちゃったのかしら」とひそひそ話す声が漏れていた。
 団扇を手に所内を徘徊し、壁をくまなくチェックしてまわる俺の姿は確かに異様だろう。
 さらに標的を見つけた途端、奇声を発して叩きつける姿に至っては精神病院を紹介されてもおかしくはない。
 いつもの俺ならこんな人目を引くことはしない。噂に上るのすら恐れるだろう。だが今の俺は羞恥心など遠くにかなぐり捨てていた。
 これは譲れない戦いなのである。
 にっくき蚊が俺の血を吸うのを、手をこまねいて見てるしかない状況に、脳内血管が破裂しそうだった。溜まったストレスを吐き出す場所はもはや職場しかない。ここなら思う存分蚊を叩き潰せるのだ。
「相当溜まってるようですね」
 俺が一息ついて自席に戻るとキーボードを打つ手を止めて伊橋が話しかけてきた。
「まぁな」と俺はぶっきらぼうに答えた。仕事に集中できないバツの悪さで伊橋の目をまともに見れなかった。
 なにも俺は暇してるわけではない。片付けなきゃいけない仕事はごまんとある。俺がきちんと仕事をしないと伊橋にかかる負担が大きくなるのだ。
 俺が仏頂面で画面に向かいメールの受信アイコンをクリックしてると、伊橋は一旦前に向きなおした顔を再びこちらに向けてきた。
「そうだ多田さん、今夜一杯行きますか?」
 なんて泣かせる台詞だこいつ。
 仕事もできるうえに上司に対して気遣いもできる、妬ましくなりそうなくらい人間のできた奴だ。俺も蚊のことくらいで目くじら立ててないで、もっと心をおおらかに持つべきかという気になる。
「悪いな伊橋」
 部下に恵まれたのだけは俺の人生の救いと言っていい。今日は伊橋の申し出に甘えさせてもらおうと思った。
 仕事を終え、伊橋と二人、駅の近くの居酒屋に入った。
 日本酒の種類が多いことで評判の居酒屋である。通好みなうらぶれた感じの店内は狭い。食べ物のメニューは種類が少なく茶漬けが美味いと聞いたことがある。
 伊橋のルックスからするとショットバーの方が雰囲気に合うのだろうが、あいにく俺のルックスは場末の居酒屋向きだ。まぁこいつは普段そういう場所に行き慣れてるだろうから、たまには中年男とこういう場所に入るのも新鮮だろう、と思うことにする。
 いかめしい顔の親父が僅かに顔を上げて「らっしゃい」と低くよく通る声で言った。俺と伊橋は狭い通路を通り、奥の小さなお座敷の席に進んだ。
 適当に焼き鳥などのつまみ類を注文し、やってきた日本酒をちびりちびりと啜る。今月の小遣いは多分今夜で飛ぶだろう。酒は大事に飲まなければいけない。こんな時でも貧乏性が出る自分をさもしく感じて少し鬱になる。
「まったくなにが殺虫禁止令だ」
 俺は苦々しげに吐き捨てた。
 焦げの多い焼き鳥にがぶりと喰らいつく。
「所帯を持つとなにかと大変ですねぇ」
 伊橋は遠慮気味なのか焼き鳥に手をつけずビールを一口煽る。
「虫のいない世界に行きたいよ」
「それはそれで味気ないんじゃないですか?」
「虫に味なんてあるもんか。害虫に至っては百害あって一利なしだ」
「確かに百害はありますけど、一利もないってことはないかもしれませんよ」
「なんだよお前、害虫が何かの役に立ってると思うのか?」
「いやぁ、多田さんを見てるとなんとなく」
 伊橋は人の好い顔でにこりと笑って言った。俺は残り少なくなった酒を一気に飲み干してグラスを置く。
「俺が害虫に助けられてるってのか?」
 断じて言っておくが絡み酒の気はないはずだ。
 伊橋の言葉に気を悪くしたつもりはない。
「助けられてるとまでは言いませんけど……目一杯生きてるなぁって、時々思ったり」
 やや引け腰になって、だが笑顔を崩さず伊橋は答える。
「そりゃ死んでなけりゃ生きてるだろ」
「そういう意味じゃなくて、なんていうか、その時その時を一生懸命生きてるなぁって感じるんですよ」
「なんだそりゃ」
「ほら、蚊を殺そうとするのは害されて腹が立つからでしょう? それは生きてることを大切にしてるってことじゃないですか。だからかなぁ。蚊を追いかける姿が、妙に生き生きして見えることがあるんですよ」
 どういう理屈だ。
 伊橋は文人の気があるかもしれん。
「ま、蚊を殺す時に生き生きしてるってのは認めるのもやぶさかじゃないけどな。蚊を殺すのは俺のライフワークだから」
 俺は焼き鳥の最後の一本にかぶりついた。結局伊橋は一本も食べていない。どこまでこいつは遠慮深いんだ。
「他にも食いもん頼むか?」
「あ、この後知り合いとも飲みがあるので僕のことは気にしないでください」
 なんだデートの約束があったのか。前言撤回だ。
 俺は話をもとに戻した。
「でも蚊を殺す時生き生きしてるのと、蚊が役に立ってるってのはつながらないだろう。それにそれって結局『人間は好戦的な生き物である』ってことじゃないか? うちの奥さんはまさにそれを嫌がってるんだ。おかげでこのザマだよ」
「確かに。でも奥さんもいつか気付きますよ。害虫とは戦わずにはいられないんだって」
「気付いてくれりゃいいんだけどなぁ」
 言って、親父にもう一杯、酒を注文する。伊橋もビールを追加した。
「奥さんは結局のところ、殺虫云々なんてどうでもいいんじゃないですか?」
 一気にグラスを空にしてから伊橋は言った。
「どういう意味だ?」
 思わず身を乗り出す。
「多田さんに、もう少し家族に目を向けて欲しかったとか」
「俺に? 俺はいつも家族のこと考えてるぞ」
 いや、嘘だな。言われてみれば、毎日ただ働いてるだけで、幸介の未来、家族の未来なんて真剣に考えたことはない。
「奥さん、きっと寂しかったんですよ。多田さんともっと家族のことについて話し合いたかったんじゃないですかね」
 そうなんだろうか?
 伊橋の意外な話に、荒れ狂ってた俺の心は突然水を浴びせられたように静まり返り、俺は過去の己の言動を振り返った。
 親父が追加の酒を持ってきた。何気なくそれを口に運ぶ。透明の液体は甘くてほろ苦い。
 気をきかせた伊橋が会社の話題を振ってくれるがそれは適当に受け流し、帰ったらもう少し家族と接してみるかと心の片隅で考えてみたりした。
 それからデートが後に控えてる伊橋のために切りのいいところでお開きとし、俺はいいほろ酔いかげんで家族の待つ我が家に帰り着いて玄関の扉をくぐった。
「おかえりなさい、パパ」
 久江はリビングで幸介の爪を切ってるところだった。
 幸介は今にも飛び跳ねそうな落ち着かない様子でテーブルのオモチャに視線を送っている。
 相変わらず蚊が我が物顔で飛び交っていた。やはりなんと言おうとこいつを見ると無条件に腹が立ってくる。だが俺はこれも幸介のためだと自分に言い聞かせてなんとか平静でいようと努めた。
 こんなに蚊がいて平気なのかと以前久江に聞いてみたことがある。お前だって血を吸われるだろうと。だが久江が言うには自分は吸われにくい体質なのだそうで、事実吸われた痕はひとつもなかった。では幸介もそうなのか、吸われるのは自分だけなのかとがっくりしたのはつい三日前の話である。
 ネクタイを緩めながら寝室に向かうと、爪を切り終わった幸介が「パパおかえり〜」と後を追いかけてきた。
 久しぶりに高い高いでもしてやろうかと俺は振り返って幸介を抱き上げた。
 さすがに五歳ともなると重くて頭の上までは持ち上がらない。目の高さまで上げたところでずしっと腰にくる。俺ももうおっさんだ。
 にへらと笑う幸介が俺の顔に手を伸ばしてくる。目当ては顎の髭だろう。じょりじょり感が楽しいらしい。ふと、その左手首に緑のバンドが巻きついてるのに気付いて、「なんだこりゃ?」と呟くと、久江が「知らないの?」とでもいうように面倒くさげに一瞥した。こいつは本当に俺と話したがってるのか?
「虫除けバンドよ」
「はへ? こんなの効果あるのか?」
 思わずすっとんきょうな声をあげて訊く。
 ていうかやっぱり幸介は蚊に狙われてるんじゃないか。
「今のところほとんど刺されてないわ」
「へぇ〜すごいな。俺の分は?」
 俺はしげしげと緑のバンドを眺めて言った。
「ないわよ。自分で買ってちょうだい」
 抗議しようと口を開いた途端、幸介に頬を力一杯つねり上げられた。
 
 
 日に日に忌々しい赤い痕が俺の腕なり脚なりに増えていった。
 俺の血は相当美味いらしい。虫除けスプレーも虫除けバンドも、蚊はものともせず俺に纏わりついてくる。その度に幸介のため、幸介のためと自分に言い聞かせてたが、馬鹿馬鹿しい感はどうしても拭えず、逆に苛々が一層つのるばかりだった。
 不満が積もり積もると家族との会話にも支障をきたす。俺はこないだ家族のことをもう少し考えるべきかと学んだばかりなのに、すでにそんな気は微塵もなくなり、毎日むっつりとして過ごした。
 全てこの害虫のせいなのだ。
 丸々太った我が家の蚊を見ると怒りで血が沸騰しそうだった。思いっきり叩き潰してやりたい衝動は日を追うごとに増している。久江の見てないところでなんとか殺してやろうと何度も画策したが、久江は千里眼でも持ってるのかグッドタイミングで現れては「おこづかい半額」と厳しい顔で警告してくるのだ。おこづかい半額になどされたら、このクソ暑い季節の最中、ジュース一本買うのもままならない状態で過ごすはめになってしまう。久江の持つジョーカーは強力だった。
 俺は早く家に帰りたくなくて遅くまで残業したり、帰りに本屋などでぶらついて帰るようになった。
 この日も駅前の大きめの本屋に寄り、このストレスのはけ口はないものかと趣味と実用書の本棚を漁っていた。
 何か他のことに没頭して蚊のことを忘れようと思ったのだ。
 だが、どれも面白そうではあるが、手始めに揃えなきゃいけない道具などがいかにも高そうでがっくりとする。金のかかる趣味は久江に嫌がられるのは容易に想像がつく。まずは先立つものが必要なようだ。
 俺はため息をついて趣味の棚に背を向けた。壁が高すぎる。
 続いて足が向かった先は『癒し・アロマテラピー』のコーナーだった。
 素直に疲れた心を癒すのはどうだろうと思ったわけだが、正直このコーナーに入るのは「そこまで病んでるのか俺は?」と自分自身が不安になってしまう要素があるため躊躇いがある。しかし癒しというものが本当に効果があるのかという好奇心も手伝って、この日は割合あっさりと未踏の地に足を踏み入れることができた。
 棚の前に表紙を上にして並べられた本の山をざっと見渡す。綺麗な海の写真が表紙の本があった。ヒーリングミュージックのCD付きだ。手に取って開いて見ると、風景写真集のようである。なるほど、見てると心に静かな波がよせてくる。いかにも癒されてるという心地よい波動に包まれる。
 多少なりとも癒された感触を味わった後、本を閉じて裏返してみた。駄目だ。これも高すぎる。本の裏に書かれてる数字は、俺の心を萎ませた。
 諦めて本を置こうとした時、俺の耳が例の羽音をキャッチした。
 
 ぷ〜〜〜〜〜〜〜〜ん
 
 くそ。ここでもか!
 耳障りな振動音に全身の血が一瞬にして沸点に達した。
 頭を左右に大きく回し、奴の姿を探す。目も一回転する振り子のようにぎょろりと動かす。
 全神経を集中させ、奴の気配を逃すまいと空気を肌で捉える。
 すると左後方三十度の方角に微かな空気の乱れを感じた。それとほぼ同時に聞こえてくる羽音は徐々にこちらの本棚に向かってくる。視界の端に霞んだ黒い影が現れる。それは本棚の背表紙に到達し、ふいにぷつっと止まった。
 その途端俺の思考は吹っ飛び、手にした本を目標物めがけて力のあらん限り叩きつけた。
 何も考えられなかった。
 そいつを殺すことしか頭になかった。
 ばきっという不吉な音が響き、澄んだ碧の表紙に皺がよった。
 しまったCDが入ってたんだと後悔の念が押し寄せてくる。
 身を凍らせた俺の頭上を、黒い害虫が五体満足な姿で飛び去っていった。
 無念、の一言に尽きる。
 もはや追撃は不可能だった。
 何故ならいつの間に現れた店員が、本棚の端からこちらをじーっと見つめていたからだ。
「お客さま……」
 気の毒そうな目で見られるのは怒られるより深い自省の念に囚われるのだと知る。
 買わないわけにはいかなかった。
 
 
 割れたCDが付録されてる本を手に、意気消沈して帰路についた。
 幸介が玄関まで出迎えてくれるが、その鼻水だらけの顔に気分は更に落ち込んだ。
「パパ、ひこうきぶ〜ん。いっしょにぶ〜んしようよ」
「あとでな。父さん疲れてるんだ」
 正直、答えるのも億劫だった。さっさとシャワーでも浴びて、心身共にさっぱりしたかった。
「ぶ〜ん」
 寝室に向かう俺の後を、飛行機のオモチャをかかげて幸介がついてくる。
 部屋に入ると「とうちゃ〜く!」と叫んでその場でくるくる旋回しだした。
 上から飛行機を急降下させ、床にぼとっと落として満足げに言った。
「ついら〜く」
 それを言うなら着陸だろう。
 いや最終的には落ちたから墜落か。
 どっと疲れが増した。
 それからシャワーを浴びて汗を流し、Tシャツと短パン姿になって、頼みの綱のビールを取りにキッチンに移動する。
 冷蔵庫を開けるといつもビールの缶がある場所にジュースと牛乳のパックが居座っていた。
「おい、ビールはどうしたんだ?」
 まな板の上で包丁を振るう久江に聞くと、
「テーブルの上に出してあるわよ」
 と首で向こうのダイニングテーブルを示す。
 確かにそこには見慣れたビールの缶があるが、見るからに冷えてなさそうだった。
「なんで冷蔵庫に入れておいてくれないんだよ」
「ごめんなさい、冷蔵庫がいっぱいだったのよ」
 再び脱力する。
 なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
 常温のビールを手にリビングに向かうと相変わらず蚊が飛んでいた。
 殺意は沈んだ心に沸々と湧いてくる。恨み骨髄に徹するとはこのことか。
 最早何もかもが腹立たしかった。
 どっかとソファに座り、プルトップを上げてなまぬるいビールを胃に流し込む。
 今すぐハエ叩きを手に家中叩いてまわりたい。
 殺虫禁止令なんか糞くらえだ!
 俺の苛々は頂点に達していた。
 子供の精神的育成のために大人の精神的健康が損なわれるのはやはり納得がいかない。
 蚊を殺したくてうずうずする手を残り少ない理性で抑えつける。その理性も最早紙切れと化していたが。
 ぎらぎらした目で空を睨みつける俺の横に、久江が来て平然とした顔で言った。
「パパ、今週の週末は日曜大工をお願い。コウちゃんが激しく動き回るから家具がいっぱい傷んじゃって。引き出しが壊れかけてるのとかあるのよ」
 なんだって!
 休日までこの蚊だらけの家に居ろってのか!
 蚊のいないところに出かけるつもりだった俺は愕然とした。
「コウちゃんたら、日増しに乱暴になって困るわよね。壁とか家具に飛び蹴りしたりして遊ぶのよ」
 ならもう「暴力を振るわない子に育てる」のは手遅れじゃないのか?
「猫でも飼ってみようかしらね。優しさが育つってものでしょ?」
 このうえ蚤にまで悩まされるはめになるのか?
 俺は震える手を伸ばしてテーブルの煙草とライターを掴んだ。
「あ、パパ、煙草はちゃんと外で吸ってね。コウちゃんの体に悪いんだから」
 子供のため、子供のため、なにかというと子供のためばかりだ!
 俺は叫び出したくなった。
 幸介が可愛くないわけじゃない。だが一に子供ニに子供では窮屈なのも事実だった。
 必死に堪える俺を嘲笑うかのように、蚊が目の前にやってきた。
 ぷ〜〜〜んと例の音が響く。
 こいつらの何が苛つくって、この人を小馬鹿にしたようなふよふよした飛び方が苛つくのだ。更に嫌悪感を催すあの羽音に至っては、こいつらを生み出した創造主にかかと落としを喰らわせたくなるというものだ。
 両手でぱちんと叩きたい誘惑に無意識のうちに手が動いてた。
「蚊を殺しちゃダメだからね。コウちゃんのために我慢よ我慢」
 
 その途端、俺の頭で何かがぷちっと音を立てて切れた。
 
「なにが幸介のためだぁぁっ!」
 
 気付いたら叫んで立ち上がっていた。
 一瞬自分が何をしたのか分からなかった。
 久江がびっくりした顔で唖然とこちらを見つめてる。
 はっと意識を取り戻した俺は、衝動に突き動かされるまま走り出す。寝室に飛び込み財布を握り、とっぷりと暮れた外に飛び出した。
 言ってしまった。とうとう言ってしまった。
 だが後悔より不思議な心地よさがあった。
 久江が背後で何か叫んだが無視して、我が家の明かりからできるだけ遠くにと走って逃げる。
 マンションの階段を駆け下り大通りを走り、人目も気にせず突き進む。何人かが振り返る。誰かとぶつかりそうになる。そんなの知ったこっちゃない。やがて見えてきたコンビニに息せき切って駆け込んだ。
 日用雑貨が並ぶ陳列棚に目を走らせ、殺虫スプレーを二本手に取り真っ直ぐレジに向かう。店員の顔は心なしか怯えていた。その正面に品物をどっかと置く。
「これください」
 鬼気迫るものを感じたのだろう。店員はしなくてもいい首肯を返した。
 機械的な動作で手渡されたレジ袋を受け取り、再び夜の闇に躍り出す。
 目指すは遠くの公園だった。確か歩いて三十分ほどのところに大きい公園があったはずだと記憶を探る。
 この期に及んで、隣人に姿を見られるのは本能が避けようとしてるらしい。奇妙なものだ。
 人間の本質とは何なのだろう。
 難しすぎて、俺には一生分かりそうもない。
 ただ、人気の絶えた夜の心細い小道を、走るほどに高まる高揚感は、正常な人間のものではないということは朧げに気付いていた。
 感情の高ぶるままに頬を歪ませる。知らず足は弾み、「ひひひ」と掠れた声がこぼれる。
 もし誰かとすれ違ってたら悲鳴をあげられてたことだろう。幸いにも人に見られることなく目的の公園に辿り着いた。
 公園の中は静まり返って人間を拒絶する息遣いが聞こえてきた。
 チチチチチ、ざわざわざわ、闇に木霊する微かな音は、昼間とは別の世界を紡ぎだす。
 そう、ここは人外の地だ。
 夜の世界ではここを支配するのは人間と相容れない虫どもに他ならない。
 虫だ虫だ。虫けらどもだ。
 異端である俺は躊躇いなく人外の地を闊歩する。それほど彷徨うことなく闇に浮かんだ薄明るい空間を発見する。
 緑の草ぼうぼうの藪の近くに、一本の外灯が灯っていた。傍らに半分以上ペンキの剥げたベンチがひっそりと横たわっている。朽ちた世界を思わせた。
 俺の目は橙と白の混じるその光源に釘付けとなる。
 いや、正しくはその手前、明かりに群がる小さな無数の影。俺はその影に魅入られたように近付いていく。スプレー缶を握る手に力が籠もる。
 いるぞいるぞ。虫どもがわんさかいる。
 蛾がいる、やぶ蚊がいる、名も知らない羽虫がいる。
 害虫だ、全部害虫だ。
 踊りだしたい気分に自然と足は速まった。
 外灯の真下に到達すると、殺虫スプレーを両手に構え、空中に一斉噴射を開始する。
 白い霧が光の中に浮かび上がる。
 小さな羽虫が力を失い地面にゆっくり落ちていった。
 大きめの蛾が狂ったようにばたつきだし、やがてぽとっと糸が切れたように落ちていった。
 虫たちの動揺が伝わってくる。
 敵の存在に気付いた虫が、俺の周囲を忙しなく回りだす。
 お前らが俺に敵うわけがない。
 餌の匂いにつられて、俺の天敵である黒い蚊が手に足に纏わりついてきた。
 スプレー缶の底で思う存分叩き潰してやる。だがそれではやはり物足りない。缶を地面に投げ、手で直接叩きだす。何匹も何匹も叩いて落とす。
 よくも今までさんざ俺の血を吸いまくってくれたな。
 俺がいつまでも大人しくしてると思ったら大間違いだ。
 害虫などみんな滅べばいい。
 俺は堪えきれず高らかに哄笑した。
 
 害虫を殺してなにが悪い!
 人間様の力を思い知れ!
 
 ひゃひゃひゃと笑いながら両の手を振り回し、欲望のままに俺は踊り狂った。
 毒物の粒子が撒き散らされ、足元に黒い死骸が溜まっていく。
 それはさぞかし不気味な光景だったろう。
 狂気の宴に酔う俺の姿は、悪魔に魅入られたピエロのようだったに違いない。
 だが宴の終わりは突然やってくる。
 それは後ろから肩を叩かれるという形で訪れた。
「何をやってるんだね、あんた」
 悦に入ってた俺はゼンマイの切れた人形のように硬まり、呆気なく現実の世界に引き戻された。狂気は跡形もなく消えた。
 背後を恐る恐る振り返ってみると、怖い顔で睨みつけてくる警官が立っていた。
 だよなぁ。そりゃ捕まるよなぁ。
 どこか冷静な自分がいた。
 
 
 パトカーで警察署に連行され、取調室とやらに初めて入った。
 なにごとも経験だと前向きな気持ちにはなれなかった。
 俺はしゅんとうなだれて、半分呆れ顔の警官にことの次第を説明した。
 俺の話が進むにつれ、警官の目に可哀想なものを見る光が宿っていった。
 惨めやら情けないやら、俺はもう涙も出ない。
 ここまできたらもういっそ開き直って、カツ丼でも食わせてもらおうかと本気で思う。
 警官が同情して「うちのカミさんもさ」と聞きたくもない家庭の事情を語りだした時。
 カツッ、カツッという不吉な音が背後の扉に近付いてきた。
 その音が俺の背後で止むと同時にバタンと勢いよく扉が開かれた。
 背中が汗でじっとり滲む。怖くて後ろを振り返れない。
「なにやってるのよあなた!」
 予感は見事に的中した。補導された少年じゃあるまいし、家に連絡した馬鹿はどこのどいつだと目の前の警官に咬みついてやりたい。
 肩をいからせた久江が大股で俺の横にやってくる。ちらっとだけその顔を見て俺は危うくちびりそうになった。怖い。ここは地獄の釜じゃなかろうか。
「パパ、なにやってるの?」
 久江の腰の辺りから、小さな頭がひょこっと現れた。お前まで来たのか幸介。その無邪気な顔に心底自分が恥ずかしくなる。
「なにやってるんだろうなぁ……」
 力なく答えた。まったくなにやってるんだ俺は。
 激しい自己嫌悪に首を落とす。
 そんな俺の様子を見ていた久江の気配からふっと怒気が消えたような気がした。
「さ、帰るわよあなた」
 ぽん、と肩を叩かれた俺はなにごとかと顔を上げた。予想外の優しい声に世界がひっくり返ったのかと思った。
 久江は呆れ顔ではあったが、どこか優しい眼で俺を見ていた。
「ビール、冷やしておいたから」
 まさに驚天動地な出来事だった。俺は阿呆みたいにぽかんと口を開けた。
 無理もないだろう。
 俺を気遣ってくれる久江を見るのは本当に久しぶりだったのだ。
「パパかえろー」
 幸介が俺の膝元に手を乗せて俺の顔を見上げて言う。素直に可愛いなと思う。
「ああ、帰ろうか」
 涙で視界が滲んだので幸介を抱き上げて顔を隠した。
 
 
「あなたの気持ちをちゃんと考えてあげてなかったわね、ごめんなさい」
 パトカーでマンションの前まで送ってもらい、走り去る後ろ姿を見送った後に久江が言った。
「いや、俺の方こそ幸介のことはお前にまかせきりなのに不満ばかり言って悪かったよ」
 俺は素直な気持ちで謝った。そうだこいつは話せば分かる女なのに、俺はそこに惚れて結婚したのに、すっかり忘れていたんだな。
「私、一人でコウちゃんを育ててるように感じてたのよ」
 伊橋の言葉は正しかったのだ。
「これからはちゃんと俺も育児について考えなきゃな」
 俺は幸介の手を引きながら、時折後ろの久江を振り返って顔を見合わせ、我が家への階段を上っていった。久江は感情の波が引いたような顔に微かな笑みを浮かべて俺を見返してきた。
 幸介はもう眠いのかしきりに欠伸をしている。また鼻水で口元がかぴかぴだ。家に戻ったら拭いてやろうか。
 見慣れた我が家の扉に辿り着いたときは幸介の目はとろんと虚ろになっていた。
 扉を開けると籠もった熱気が噴き出してくる。夜の外気の涼しさを名残惜しみつつ中に入る。
 早速蚊が俺の気配に引き寄せられてやってきた。微かな羽音に眉をひそめる。やっぱりこいつに対する生理的不快感はどうしようもない。遺伝子レベルで刷り込まれてるのだ。殺虫禁止令はなんとか廃止してもらおう。幸介の前ではなるべく殺さないようにするってことで。
 俺はふよふよ漂う天敵に、にやりと笑みを投げかけた。
 分かってる、こいつも生き物だ。一生懸命生きている。そして俺も生き物だ。生きてるからこそ戦っている。これは命と命のぶつかり合いなのだ。
 それが害虫と人間の、自然なあり方なのだと俺は思う。
 久江には分かってもらえないかもしれないが、とひとりごちながらリビングの明かりを点ける。家具や散らかったオモチャでごちゃごちゃした部屋が白光のもとに晒された。
 これぞ見慣れた我が家だ、と一歩進んでふと足を止める。
 視界の隅に蠢くものがあった。
 リビングの白い壁に、カサカサと這い回る黒い影。
 俺がその正体に気付き、「ゴ」と最初の一文字を叫ぶより早く、一陣の風が吹き抜けるが如く久江が横をすり抜けた。
 
 スパァァ――――ン!
 
 あっという間の出来事だった。
 世界が一瞬真っ白になった。
 久江が手にしたスリッパは、壁との間に障害物を挟みながらも、突き抜けるような快音を響かせた。
 幸介の手がするりと抜け落ちる。
 呆気にとられる俺と幸介の目の前で、ソレは体液を四方にぶちまけながら昇天したのだった。
 
『人間は好戦的な生き物である』
 
 この時ふと浮かんだ言葉は、何気に真実を物語ってるのかもしれない。
 殺気をみなぎらせた久江の後ろ姿はそんな退廃的思考をもたらしてくれた。
 確かにその姿は生命感に溢れていたのである。
 鬼神もかくやの姿だった。
 
 
 こうして我が家の殺虫禁止令は、名実共に廃止となった。
 俺は心ゆくまで蚊と戦える以前の暮らしに戻れて大いに喜んだ。
 何もかも元の鞘に収まったのだ。
 ただ少し変わったことといえば、あれから幸介の久江に対する態度に、若干の怯えが混じるようになったことか。
 気の毒に、五歳にして母の真実を垣間見てしまうとは。
 だがいつかはどうせ知ることになるのだ。いい勉強になったと思って心によく刻んでおくのだ息子よ。
 女とは怖い生き物なのだ。
 俺は今日もビールを手にリビングに向かう。ソファに座るとまた蚊が寄ってくる。叩いても叩いてもこいつらは懲りることなく戦いを仕掛けてくる。
 お互い生きるのに必死だよな。
 そんなことを呟きながら団扇を手に立ち上がり、飽くなき追いかけっこに身を投じる。幸介の笑い声と久江のきんきん声が、数刻後に響くのだった。
 
		
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